「一九八七年か、八年の夏だったと思う。」
この手の書き口をいつも羨ましく思う。
自分の場合一九八七年なんていうのは、
まだ自分が人間という生き物かどうか自覚できてすらいない、赤ちゃんだった。
過ぎ去った日々を懐かしみながら何かしらの文章を書くとするなら
一九九六年でようやく10歳であり、
いっちょまえに悩みなどを抱えていた年にはもう、
二〇〇三年になっているではないか。
二〇〇〇年を超えてからもう十五年も経っているにもかかわらず、
二〇〇〇という響きはには新しい時代の匂いがしみついている。
「あれは、たしか、二〇〇三年の梅雨明けの頃だったか、
同じクラスだったボーイフレンドと…」なんていう文章を書いたとしても、
映像ははっきりとしたカラーで蘇り、懐かしいかんじが薄れてグッとこない。
これが、もし一九九七年という響きと共に語られる記憶だったら
その記憶はなんだか少し色あせ、
ピントも曖昧でかっこいいのだろうなどと思って、謎にいつも悔しい。